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寄稿・提言

大使として見たインドの印象ー吉沢清次郎

「現代史を語る〈5〉吉沢清次郎―内政史研究会談話速記録」 (現代史料出版社)より抜粋
現代史料出版社と渡辺昭夫先生のご厚意のより抜粋を掲載させて頂きました。

2021年5月21日掲載



 現代史料出版社と渡辺昭夫先生のご厚意のより抜粋を掲載させて頂きました。月刊インド2021年5月号に記事として掲載しております。合わせてごらんください。

大使として見たインドの印象 
渡辺昭夫氏(以降、渡辺):これは全く個人的な資格でお会いになったのですね。 
よければつぎに一応インド大使として行かれた話を聞きたいのですが、インド大使に行かれる頃から任期中のお話まで、何か......。 

吉沢清次郎氏(以降、吉沢):1955年から7年までですね。 
渡辺:それは鳩山内閣になってからのことですか。 
吉沢:ええ、私が行った時には日本はまだ国連にもはいっていませんしね。 
渡辺:直前でございますね。 
吉沢:国連にはいったのが56年の12月ですね。それから、日ソ国交も出来てなかったわけです。まあ、日ソ国交といえば、あの時にインドに来ておった大使はフェデレンコだったかな。これが、国交が出来るというとすぐに私を呼びにきて、そして、ウォッカを飲まされて、こっちは困るものですから、閉口したことがあるのですけれどもね。そんなことがありました。  

 インドにいる間の私の仕事は三つあったと思うのですがね。一つは、日印両国の私有財産の返還問題。これはあの当時B・C・センといったか、その後、国連の食糧機構ね、ローマにある、あそこの事務総長で行きまして、もうとうに辞めましたけれどもね。大分長くやっていました。それが大使に来ておったわけなのです。その時に私はインドへ行くことになって、それで、当時いまの財産返還の問題は、もう話が始まっておったのですが、これはね、日本側の財産は、むこうが戦争が始まると同時にエリアン・プロパティということで、むこうがすっかり管理をして、そして帳簿に全部書いてあるわけなのです。ところが、日本にいたインド人の財産というものは、例のチャンドラ ボースの問題がその後起こってきたものだから、そこであの時に解除したのでしょうね。それで、その辺があまりスッキリしていないのです。ところが、それを利用して、インド人というものは、そういっては何ですけれども、ジュウ以上に手強いというか、殊にインドのマルクーリ(協会注、マルワーリ?)というのは、これはジュウ(協会注、ユダヤ)以上に、商売抜目がないことに定評があるのですけれども、こういう連中が多いわけなので、すね。
 
 そういう連中は、何もしなかった者が、どこの空襲の時に焼けたとか何とかということを終戦後に申告してくるわけなのです。ところが、こっちが明白に嘘だというものは、そういうふうに出来ますけれども、中にはこちらが立証出来ないものもあるわけなのですね。そういうものをだんだん何して、私が任命される前に、たしか金額にして、当時の金額で、インド人の財産として日本が補償しなくちゃならんものを、二億ぐらいになっていたと思うのですね。 
渡辺:二億円ですか。 
吉沢:ええ、円で。ところが、日本人の財産で、インド側で例のエリアン・プロパティとして、これはもうちゃんとハッキリわかっているものが、十五億前後だったんじゃないかな。それを、センが、一時お互いが両方でもって帳消ししようとすることを、言い出したことがあったのです。それを私が赴任の時に懸案の一つとして持っていったわけなのですが、しかし、それはとうとう私がいる間には解決しなかったのです。で、私が帰ってきたのは、57年で、58年になってそれは解決したわけなのです。 

 それが一つと、それからもう一つは例のガット、三十五条の問題ね。これはもうご承知のようにガット条約のうちに三十五条というものがあり、これを援用すればその国に対して差別待遇をしてもいいということで、当時インドは日本に対して援用除外をしていなかったので、こいつを引っ込めさせようという問題がありました。ところがこれも私がいる間に解決せずに、帰ってきた年の1958年に解決した。これは情勢がだんだん変わってきておったから。 

 それから、もう一つの問題は、通商協定の締結です。というのは、私行った時はもちろん商売はあったのですけれども、今日においてもなかなか伸びないのですけれども、私が行った当時一億ドル前後ぐらいで往来があったのではないのですか。それが日印平和条約のうちの一ヵ条で、お互いに最恵国待遇を付与するという一条がある。それでやっておったわけなのです。それで、そんなこっちゃいかんから、ひとつ正式な通商協定と、それからゆくゆくは通商航海条約にいくものを作らなくちゃいかんという、これがもう一つの問題だったのです。これも私がいる間いろいろ骨折ったけれども出来ずに、帰ってきた途端に、58年に一挙にしてその三つの問題が解決してしまったのです。 

渡辺:みんな58年ですね。 
吉沢:それをね、私の行った時は、いまの日印関係に比べるというと、よく私は言うのだけれども、まるでぬるま湯につかったようなもので、出ると寒いし、そうかといっていつまでもはいっているわけにはいかんという状況で、ということは、私が着任した時に記者会見があったわけなのです。記者会見をやる前には、前におる連中からいろいろ話も聞いて心構えはして行ったのですけれども、実際会見をやってみて驚かされた問題が二つあるわけなのです。 

 その一つは、日本はまだ占領下にあるんじゃないかという問題。それからもう一つは、例のチャンドラボースの問題で、チャンドラボースはまだ生きているという話があるじゃないかと、どうだろうかということです。占領云々の問題は、冗談じゃないと、まだ日本にはアメリカ軍が駐留していると、だけど、これは平和条約が出来て日本が独立を回復をして、それとは別に安保条約というものを何して、安保条約の規定にあって一定のアメリカ軍が駐留しているんだということです。 

 それから第二のチャンドラボースの問題は、私も全然予期していなかったのです。まさかと思っていたところが、いまでもボースは健在だということがあるわけなのですね。それからこれは正面切って何してもしょうがないから、あなたのいまの質問と同じようなことが日本の歴史上に二つあるんだという。一つは源義経で、一つは西郷隆盛であると、それではぐらかした格好なのですがね。そういうところへいったわけなので、それで、ネールをはじめとして何となくよそよそしい。そういう一つのイラストレーションとして申し上げると、いま、ワシントンに行っているK・Mでしたかな、カウルというのが行っていますが、カウルというのはついこの間まで、去年、一昨年まで外務次官をしていた。これは、私が行った時には、ジョイント・セクレタリー、というのはまあ局長級でしたね。それでカウルは、日本関係には直接に関係がなかったのだけれども、何かの用事でもって私が話しに行った時に、彼は、カウルという奴は、実に失礼な奴だと思うのだけれども、サンフランシスコ条約には、当時はインドは参加していませんから、それで、インデアン、エンパイアーですか、つまり、英領インドの後継国はパキスタンということになっているのです。けしからんじゃないか。 

 ですから、インドとパキスタン、これはどっちが英領インドの後継者なんだというようなことになったらもう英領インドに決っているじゃないかと、それなのに日本は少なくとも法的関係では、パキスタンを英領インドの後継者として認めていると、こんなことはないじゃないか、ということ を言う。そういう空気の中にいたわけなので、ネール自身にしてからが、私はネールに会った時に、 それはあなたの国は200年あまりイギリスに首根っ子を押さえられてきた国なんだから、独立してもやっぱりどうしても西からのインフルエンスを受けることは了解出来ると、だけれどもいまは立派な独立国になっているのだから、もう少し東のほうに顔をお向けになったらどうですかということを言って、その時にちょうど日本とブラジルの文化協定が出来たあとだったものですから、ひとつ文化協定を結ぼうじゃないですかと、それで、ちょうどブラジルと出来た条約がありますから、このコピーをお届けしますから係官に研究させたらどうでしょうかと言って、これは結局出来たのですがね。出来たのですけれども、実際は有名無実でほとんど活用されていない。その後五人委員会とかいろいろなものが出来ていますからね。それはなくても、実効を発揮してなくてもたいしたことはないと思うのですけれども、そんなことを言ったことがあるのですけれども、まあ、ネール の日本に対する態度というものもそう温かではなかったですね。 

 で、彼は自叙伝の中に、「ちょうど少年の頃に日露戦争があって、有色人種が白人に対してあれだけのことが出来るということで非常に感銘を受けた」ということは言っているのですけれども、私どものその当時の感じでは、そういう感情を日本に対して持っていたけれども、しかし、第二次大戦中のアジアにおける日本の乱暴ぶりというものは、彼の考えからすると、非常に反発を感じるという感じは残っていたんじゃないかと思うのですね。ところが、私の在任中にインドのネールが日本を訪問したわけなのです。 
渡辺:あれは先生が在任中でございましたか。 

吉沢:ええ、57年の9月ですからね。で、その前に当時の副大統領の有名な学者のラダクリシュナンが訪問したのです。その時も私が日本に帰ってそして何したのですが、不幸にしてラダクリシュナンは、日本に訪問中に、たしか奥さんが亡くなられて、京都かどこかへ行っているのを急に予定を変更して帰ってしまったのですけれども、ある程度の日本の現状というものに対する認識は持って帰ったと思うのですね。
 
 それから、日本からネールに対する招待というものは、これは国会議員なんかが行くとどうも盛んに濫発をしておったけれども、そのたびにネールは、そのうちに行きましょうということであったけれども、いよいよ彼が来ることになったのは、岸総理が招待したのに対して、これを受けた、それが57年に実現したわけなのです。ところが、ネールが、その当時はインディラ・ガンジー夫人(協会注、ネールの娘)を一緒に連れてきたのですが、日本に対して案外だという感じを持ったんじゃないんですか。 

 これはたとえば私の着任した年ですから、55年に私が行った時にはまだロシア訪問から帰っていなかったですよ。それで、ところが一例を申しますというと、ネールを箱根へ連れて行って、そして富士屋で一晩泊って、帰りは十国峠を通って熱海へ出て、当時のことですから熱海から電車に乗って東京へ帰ったことがあるのです。箱根へ行く時には雨が降っていたのですけれども、それにもかかわらず村外れみたいなところで、おばあさんが孫を背中におんぶして、そして小さな紙の旗で歓迎しているというようなところを、よほど印象を受けたと思うのですね。そこで彼は、日本でも非常に歓迎を受けた、その前にロシアに行った時はそれに勝る非常な歓迎を受けた、しかし、ロ シアにおける歓迎は、これは作られた歓迎であって、オーガナイズド・アンド・レジメンテッド・ウエルカムなのです。ところが日本のやつは本当のボランタリー・ウエルカムであるという。 

 そういうことで、奇しくもネールの訪問の時に東京で早慶戦があったのです。というのは、ネールが来た当時に彼にどこかの大学でもって名誉学位をやったらどうかという話が起こって、それで東大へ持っていったところが、東大はそういう先例がないということで断ったわけなのです。それ から慶応に持っていったところが、慶応は二つ返事でもって受け入れたわけなのです。そうしたら今度は早稲田が承知しないのです。それで早稲田がやるというわけで、私は当時帰ってきて行動を一緒にしたものですから、慶応では、いまはいろいろ出来ているのでしょうけれども、福沢諭吉が演説をしたという演説館がありますね。あれはせいぜい200人ぐらい200人もはいれないのかな、小さなものですね、木造の。そこで名誉学位の授与式をやったのですけれども、学生はそんな ことでは承知しないわけなのです。それで図書館の建物のバルコニーから学生に対して一応の演説 をするという場面があったわけなのです。 

 これはね、慶応のほうは大したことはなかったけれども、早稲田の時は大変なことで、大隈講堂で式はやって、今度は外へ出て車へ乗ろうとするというと、学生がすっかり取り囲んじゃって身動きが出来ないのですよ。私らはそのあとをついて行かなくてはいけないのだけれども、なかなか自分の車に辿りつけないという状況です。 

 それから、奈良へ行った時は、これも一緒について行ったのですけれども、あの辺で百姓家にはいって、当時はいわゆる三種の神器というのは、テレビに、電気洗濯機に、冷蔵庫でしたね、その 時代で、何気なく百姓家にはいってみたらそれがあるのですよ。もうびっくりしちゃったらしいのです。 

 そんなことで、私はネールの日本に対する考え方というものが、57年の9月の日本訪問でぐるっと変わったと思うのですね。というのは、その前は私らに対する態度でもそう特になんということはなかったけれども、帰って間もなく大げさに言えば日本の文化の紹介のような催しをしたこと があるのですよ。ところがこれに当初まだ経済大国にそろそろなりかけの時分ですからね。そう何じゃなくて、寄せ集めに日本の人形や、トランジスターとか、そんなものを並べるくらいな、きわめて、いまから言ったらお恥ずかしいものだったのですが、それにネールに「来てくれ」と言ったらネールが来るのです。 来て、そしてそこで間に合わせのお茶か何かたててご馳走をするというと、ちゃんと坐ってやる。インディラ・ガンジーの如きは、そのお父さんについて来た時に、日本人のことだからほうぼうからお土産を貰って帰る、いろいろなものがある。その中に日本の着物があるわけなのですね。それを着て出るというわけなのですね。帯は結べないから、大使館の奥さんが行って結んでやって、窮屈な思いをして足袋をはき草履をはいて出てきて、お茶にちゃんと坐ったのですね。そんなことは、日本訪問の前にはちょっと想像も出来ないような雰囲気だったですね。  

 それで、これまたエピソードになりますけれども、当時、外務大臣は藤山(愛一郎)さんがやっておって、着いた翌々晩ぐらいでしたかな、そこの山王の「賀寿老」で日本料理の宴会をやったわけなのです。ちょうど私が筋向いぐらいに坐っていたら、見ていると、出てくるものを全部食べるんだな。たしか刺身はなかったと思うのですけれども、そのほか純日本式のを全部食べるわけなのです。そこで私が57年の12月、押しつまってから帰朝命令が来て帰るという時に、ネールが、われわれ夫婦をきわめて小規模な午餐会に呼んでくれて、ネールと、インディラ・ガンジー夫人と、ガンジー夫人の主人のミスター・ガンジーというのがまだその当時在世中でしたから、それと、それからもう一人たしか親戚か何かのお嬢さんか何かがおって、6人だけのきわめて小じんまりしたものでした。 

 私はちょうどネールさんのそばに坐っておったですからね。「あなたが日本に行った時見ていたら、日本料理を全部食べた」、それからあとついて歩いていると京都や何かでも同じなのですね。「だから、全部食べられましたが一体どう思われました。あれはインド料理から比べて脂肪分は少ないし、まずかったんじゃないですか」と言ったら、そしたら、日本料理については自分は三つの感じたことがある。一つはシンプルということ、それからもう一つはナチュラルだったかな、それからもう一つ、しかしホールサムだと、食べても別にあたりもせんし、きわめて衛生的というか、だということを言ったことがあるのですね。 

 それがね、私はネールが日本の当時の経済大国になりつつある日本の姿を見たことで、前には日本に対して多少偏見を持っておったか知らんけれども、これはやっぱり日本と一緒にやっていかなくてはならんという感じを持った一つの機縁じゃなかったかと思うのですがね。もう日本へ行った前とそのあととでは、インディラ・ガンジーが草履をはいて来たことでもわかるように何すると、それから、インディラ・ガンジーが今度は大臣になるというと、大分態度は違ってきていますけれどもね。 

 57年の9月に来てその暮に私は帰ったのですから、ですから58年にはさっき言った三つのその時の懸案が解決するというようなことで、私としてはいろいろ骨を折った結果を、もう少し見て帰りたいという感じはあったのですけれども、ちょうど、あれは藤山さんのあと、いや藤山さん自身が替えたわけかな、あとは那須皓博士が来たのです。当時私はもう六十二、三でしたかな、それでラダクリシュナンなんかにあいさつに行った時、「何だ、あなたのあとへ来るのはあなたより五つも年上じゃないか」ということを言った。しかし、つい二、三日前も会ったのですけど那須さんはもう八十五歳ぐらいですか、それにもかかわらず南米のほうへ手を出したりなんかしてね、矍鑠たるもので、もうこっちが年が若いのにおいぼれているから、なるほど、ラダクリシュナンがそう言っていたけれども、やっぱりえらいものだなと思って話をしたのですけれどもね。

渡辺:当時のどうなのですか、サンフランシスコ講和条約で、インドが加わりませんでしたね。それが日本に対して好意的な立場からと、それからたとえば......、 
吉沢:好意的というか......、 
渡辺:極東裁判なんかの場合も例のパール判決だとか、その当時の日本の受取り方ではインドというのは非常に......、 
吉沢:非常に好意を持っているというように思ったですけれども、しかし、実際に行ってみると、最初は私はそうでなかったと思うのですね。ところが、56年ぐらいからだんだんインドの外貨事情が苦しくなってきて、借りたい放題に借りておったやつを、金利を払っていかなくてはならないと、そのうちには、借りたやつでもって金利を払えば残らんという状勢がぼちぼち出はじめてきた時分ですからね。ですけれども、B・K・ネールという、これはネールの何になりますかね、甥ぐらいになるのですかね。彼が財務省の次官をやっていましてね、当時まだ日本から金を借りるなんていうようなことは考えていなかった時分ですけれども、私に、日本からもそろそろ金を貸してもらわなくちゃならんようなことになってきたというようなことを言ったことがありますけれどね。 

 彼はなかなか頭の切れる男で、その後、ワシントンの大使になって行きましてね。いまはどこかのガバナー(協会注、知事)をしているはずです。ところが、その後円借款の問題とか何とかいろいろな何が来て、いまではむこうはヤイノヤイノと言ってくるということになっている。しかし、それでありながら日本とインドとの間の貿易というものは一向どうも伸びないということで、いまはせいぜい二億ドルぐらいのところじゃないですか。 

 というのはね、大蔵省へ行くと、インドは非常に評判が悪いのですね。彼らは金を貸してやっても決してありがたいということを言ったことはないというようなことでね。そうかといっても人口は貧乏人ばかり揃っているのですけれども、五億何千万、そろそろ六億に近づこうという、マンパワーという点では非常に何がありますし、ただ、教育というような問題もありますけれども、しかし、資源も相当ありますし、まあそれはインドネシヤほど資源はないでしょうけれども、インドネシヤは石油はあり、そのほか非鉄金属等ありますけれども、インドは鉄鉱石が非常に多いですから ね。鉄鉱石はその後オーストラリヤというものが出てきたのですけれども、また、最近はブラジルあたりで非常に豊富なものが出てくるのですから何ですが、これはちょうど私のいる時に、南のほうのパイラディラという話が出はじめて、いまはその後開発をして鉄道をつけて含有分60%以上の鉱石が、埋蔵量何十億という非常なあれですからね。 
 ただね、インド人というものは商売の話になるというと、なかなか渋いんでね。 

渡辺:政治的な事件としては、ちょうどバンドン会議とか何とかいう、いわゆる中立主義ですか、そのチャンピオンでネールがやっているという、そういう時期ですけれども、そういうあたりの雰囲気というのは。 
吉沢:これは彼らは非常に、いわゆるノンアラインメント主義 (non-alignment)ということでしておったのですけれども、まあ、これは何でしょうね、1962年の中共の侵入で、これはノンアラインメントの足が一本崩れたという格好だと思うのですね。それから間もなくネール氏は死んでしまいますね。 
渡辺:さきほどお話にあったように57年ですか、9月にネールが来たという時期から前後二、 三年というのは、日本でインド・フアンというのですか、インドびいきというのが非常に高かった時期じゃないかと思うのですけれどもね。 
吉沢:まあその当時はいろんな、ミッションが来たりなんかしておったのですけれども。 
渡辺:それから、いまおっしゃったようにネールが死んだということもありますが、例の中印紛争とかで大分インドに対する日本人のイメージも変わってきたが、その前の非常に日本人から見れば立派な国だという、そういう時にちょうどネールさんが来たものだから、ちょうどよかったんじゃないですか。 
吉沢:58年に、いまはもう死んだ、ラジェンドラ・プラサドという大統領が来たのですけれどもね。ネールの名前は三歳の童子でも知っているけれども、あれは知っていないということでしたからね。 


<インタビュアーのご紹介>
(渡辺)渡邉 昭夫(わたなべ あきお、1932年8月13日 - )
平和・安全保障研究所副会長、日本防衛学会名誉会長、東京大学名誉教授。
東京大学文学部国史学科卒業、オーストラリア国立大学にて博士号取得。1966年から香港大学にて教鞭を取る。その後明治大学助教授、東京大学助教授、同教授、青山学院大学国際政治経済学部教授を経て、2000年平和・安全保障研究所理事長、東京大学、青山学院大学名誉教授。主な著書に『アジア太平洋の国際関係と日本』(東京大学出版会/1992年)、『現代日本の国際政策』(編著/有斐閣/1997年)、『アジア太平洋と新しい地域主義の展開』(編著/千倉書房/2010年)など。