2014年9月3日
日印協会代表理事・理事長 平林 博記
ナレンドラ・モディ首相は、8月30日から9月3日までわが国を公式に訪問した。
歓迎式典(赤坂迎賓館)、天皇陛下への謁見、安倍晋三総理との首脳会談とそれに続く総理主催晩さん会(赤坂迎賓館)、財界との懇談昼食会、主要閣僚や主要野党党首による表敬訪問などの「定番」のほか、日経新聞およびジェトロ共催の講演会、インド人・コミュニティーとのレセプション等が行われたが、日印協会が日印友好議員連盟を誘って開催した歓迎会(憲政記念館)にも足を運んでいただいた。
この機会に、日印両国政府は、「戦略的グローバル・パートナーシップ」を格上げし、「特別戦略的グローバル・パートナーシップ」に格上げした。筆者も出席した9月1日夜の安倍総理主催晩餐会の挨拶で、モディ首相は、「特別」という言葉を追加したのは、日本とインドとの間には精神的なつながりが深い点で特別な二国間関係だからだと述懐していた。
今回が特別で異例であったのは、最初に京都に着いたモディ首相を自ら歓迎するために、安倍総理が京都まで行ったことである。その夜は、日本の伝統美術の粋を集めた京都迎賓館においてごく小人数の非公式夕食会を開いて歓待し、翌日は、安倍総理がモディ首相を東寺に案内した。東寺は、インドに起こった密教の一つ真言宗を日本に広めた弘法大師と縁が深く、特に五重塔と金堂が有名である。金堂には国宝の阿弥陀仏ほか四天王、明王、仏を守るインド由来の神々が鎮座し、小さな極楽浄土を作り上げている。筆者も、京都の寺院仏閣の中で最も訪れる価値のあるお寺と考えている。
特に信心深いヒンズー教徒であるモディ首相は、ヒンズー教の「弟分」である仏教が日本でいかに栄え、崇拝されてきたかにつき、強い印象を抱いたであろう。午後には金閣寺を訪れたが、清水寺などではなく敢えて東寺を選んだモディ首相には、「脱帽」である。
9月2日午後に開催された日印協会と日印友好議連の歓迎会は、会場いっぱいの240名を超える両団体のメンバーが参集した。
モディ首相は多少遅れて到着されたが、森喜朗日印協会会長と町村信孝日印友好議員連盟会長、筆者がお迎えした。民主主義を重視するモディ首相が尾崎行雄翁の像に関心を示されたので、筆者からは憲政の神様・尾崎行雄翁について簡単に説明申し上げた。
会場に入り、ひな壇には、モディ首相をはさんで左右に森日印協会会長と町村友好議連会長、さらに両会長の左右に八木駐印大使とワドワ駐日大使が並んだ。
ひな壇の前と周辺には、筆者旧知のアジット・ドヴァル国家安全保障補佐官、スジャータ・シン外務次官等の随員と、日印双方の手厚い警備陣が陣取った。
筆者は、司会と両会長の通訳という大役を自らに課したが、通訳についてはひやひやものではあった。
日印協会からは、鈴木修(スズキ会長兼社長)、佐々木幹夫(三菱商事相談役)、坂根正弘(コマツ相談役)、岡素之(住友商事相談役)、槍田松瑩(三井物産会長)の5人の副会長ほか役員、会員が、また、友好議連からは茂木敏光経済産業大臣、石井啓一、桜田義孝の2副会長、武正公一幹事長、松本剛明元外務大臣など30人あまりの国会議員が出席した。
モディ首相は、森会長と町村会長からの歓迎挨拶の後、ヒンディー語で答辞を述べた。
モディ首相は名字の発音が似ている森会長とは特に親しみを感じており、2000年の訪印でグローバル・パートナーシップを樹立して核実験で冷え込んだ日印関係を立て直し、更にその後も日印協会会長として貢献してきた功績を高く評価した。森会長が日印協会は110年有余の間 日印関係に貢献してきたことに触れたので、長年にわたる日印協会の功績に大変感謝していると述べてくれた。昭和13年から日印協会に関係してきた三角佐一郎協会顧問が参列していたが、それを見たモディ首相は、壇上から特に親愛の情を示し敬意を表した。出席していた三角顧問は当年99歳、足が多少不自由になられたがまだかくしゃくとしておられる日印関係の生き字引である。
また、モディ首相はヒンディー語で挨拶や演説をすると決めており、ヒンディー語を重視しているが、参列していた溝上富夫元大阪外大ヒンディー語科教授を見て特別に声をかけ、教授からヒンディー語で心のこもった手紙をいただいて感謝していると述べた。
また、堂道秀明JICA副会長を見て、大使が在任中にグジャラート州との関係を発展させてくれたことを紹介して謝意を表した。
日印友好議連については、これまでの議連の貢献を高く評価するとともに、今後はデリーだけでなく各地を訪問していただきたいこと、若手国会議員同士の交流を深めること、更に各州の州議会との交流の必要性に言及した。
こうしてみると、モディ首相は人情と気遣いのあふれた政治家であり、常に感謝の気持ちを忘れない方とお見受けした。
そのあと、森、町村両会長より、記念品として兜飾りを贈呈した。筆者は、兜はかつてサムライが戦闘で使用したもので、強さと勇気の象徴であり、モディ首相にふさわしいものと考えて選んだと付言した。
次いで、日印友好議連の副会長と幹事長、日印協会の副会長、斎木昭隆外務次官ほかの来賓のお名前を読み上げ、順次ひな壇に登段いただき、モディ首相にご挨拶いただいた。モディ首相が、スピーチの中で、女性政治家の役割の重要性に触れたので、筆者より急ぎお願いし、出席していた、猪口邦子、片山さつき、高木美智代の3人の女性議員に起立してご挨拶頂いた。
以前、マンモハン・シン首相の歓迎会を同じ場所で開催した際は、十分な時間が取れたので、参会者全員が登壇して握手することができたが、今回は1時間と時間が切られたため、一般の国会議員や協会の会員の皆様からの個々のご挨拶は割愛せざるを得なかった。席上、釈明させていただいたが、出席をお断りせざるを得なかった会員の方々に対し、あらためてお詫び申しあげたいと思う。
その後モディ首相には、筆者による解説つきで、協会が保有する日印関係の最も重要な局面を撮影した写真パネルをご覧いただいた。その途中、モディ首相は、座っておられた三角顧問の席で、自らもしゃがんで同じ目線で親しく声をかけた。モディ首相は、スピーチの中でも言及したが、あらためて三角顧問に対し、ビデオチームを日本に派遣し、三角顧問が知っておられる日印関係の歴史につき話を伺う機会いをいただきたいとしてオラル・ヒストリー作成に意欲を示した。突然の要請に対し三角顧問は多少戸惑った様であるが、これを受け入れたので、首相は満足げであった。
全てのプログラムを終えたモディ首相一行は、参会者の盛大な拍手に送られて退席し、玄関において森、町村両会長と筆者が、再会を約してお見送りした。
なお、日本・インド首脳会談の概要については、外務省HPをご参照下さい。
日印協会代表理事・理事長 平林 博記
ナレンドラ・モディ首相は、8月30日から9月3日までわが国を公式に訪問した。
歓迎式典(赤坂迎賓館)、天皇陛下への謁見、安倍晋三総理との首脳会談とそれに続く総理主催晩さん会(赤坂迎賓館)、財界との懇談昼食会、主要閣僚や主要野党党首による表敬訪問などの「定番」のほか、日経新聞およびジェトロ共催の講演会、インド人・コミュニティーとのレセプション等が行われたが、日印協会が日印友好議員連盟を誘って開催した歓迎会(憲政記念館)にも足を運んでいただいた。
この機会に、日印両国政府は、「戦略的グローバル・パートナーシップ」を格上げし、「特別戦略的グローバル・パートナーシップ」に格上げした。筆者も出席した9月1日夜の安倍総理主催晩餐会の挨拶で、モディ首相は、「特別」という言葉を追加したのは、日本とインドとの間には精神的なつながりが深い点で特別な二国間関係だからだと述懐していた。
今回が特別で異例であったのは、最初に京都に着いたモディ首相を自ら歓迎するために、安倍総理が京都まで行ったことである。その夜は、日本の伝統美術の粋を集めた京都迎賓館においてごく小人数の非公式夕食会を開いて歓待し、翌日は、安倍総理がモディ首相を東寺に案内した。東寺は、インドに起こった密教の一つ真言宗を日本に広めた弘法大師と縁が深く、特に五重塔と金堂が有名である。金堂には国宝の阿弥陀仏ほか四天王、明王、仏を守るインド由来の神々が鎮座し、小さな極楽浄土を作り上げている。筆者も、京都の寺院仏閣の中で最も訪れる価値のあるお寺と考えている。
特に信心深いヒンズー教徒であるモディ首相は、ヒンズー教の「弟分」である仏教が日本でいかに栄え、崇拝されてきたかにつき、強い印象を抱いたであろう。午後には金閣寺を訪れたが、清水寺などではなく敢えて東寺を選んだモディ首相には、「脱帽」である。
9月2日午後に開催された日印協会と日印友好議連の歓迎会は、会場いっぱいの240名を超える両団体のメンバーが参集した。
モディ首相は多少遅れて到着されたが、森喜朗日印協会会長と町村信孝日印友好議員連盟会長、筆者がお迎えした。民主主義を重視するモディ首相が尾崎行雄翁の像に関心を示されたので、筆者からは憲政の神様・尾崎行雄翁について簡単に説明申し上げた。
会場に入り、ひな壇には、モディ首相をはさんで左右に森日印協会会長と町村友好議連会長、さらに両会長の左右に八木駐印大使とワドワ駐日大使が並んだ。
ひな壇の前と周辺には、筆者旧知のアジット・ドヴァル国家安全保障補佐官、スジャータ・シン外務次官等の随員と、日印双方の手厚い警備陣が陣取った。
筆者は、司会と両会長の通訳という大役を自らに課したが、通訳についてはひやひやものではあった。
日印協会からは、鈴木修(スズキ会長兼社長)、佐々木幹夫(三菱商事相談役)、坂根正弘(コマツ相談役)、岡素之(住友商事相談役)、槍田松瑩(三井物産会長)の5人の副会長ほか役員、会員が、また、友好議連からは茂木敏光経済産業大臣、石井啓一、桜田義孝の2副会長、武正公一幹事長、松本剛明元外務大臣など30人あまりの国会議員が出席した。
モディ首相は、森会長と町村会長からの歓迎挨拶の後、ヒンディー語で答辞を述べた。
モディ首相は名字の発音が似ている森会長とは特に親しみを感じており、2000年の訪印でグローバル・パートナーシップを樹立して核実験で冷え込んだ日印関係を立て直し、更にその後も日印協会会長として貢献してきた功績を高く評価した。森会長が日印協会は110年有余の間 日印関係に貢献してきたことに触れたので、長年にわたる日印協会の功績に大変感謝していると述べてくれた。昭和13年から日印協会に関係してきた三角佐一郎協会顧問が参列していたが、それを見たモディ首相は、壇上から特に親愛の情を示し敬意を表した。出席していた三角顧問は当年99歳、足が多少不自由になられたがまだかくしゃくとしておられる日印関係の生き字引である。
また、モディ首相はヒンディー語で挨拶や演説をすると決めており、ヒンディー語を重視しているが、参列していた溝上富夫元大阪外大ヒンディー語科教授を見て特別に声をかけ、教授からヒンディー語で心のこもった手紙をいただいて感謝していると述べた。
また、堂道秀明JICA副会長を見て、大使が在任中にグジャラート州との関係を発展させてくれたことを紹介して謝意を表した。
日印友好議連については、これまでの議連の貢献を高く評価するとともに、今後はデリーだけでなく各地を訪問していただきたいこと、若手国会議員同士の交流を深めること、更に各州の州議会との交流の必要性に言及した。
こうしてみると、モディ首相は人情と気遣いのあふれた政治家であり、常に感謝の気持ちを忘れない方とお見受けした。
そのあと、森、町村両会長より、記念品として兜飾りを贈呈した。筆者は、兜はかつてサムライが戦闘で使用したもので、強さと勇気の象徴であり、モディ首相にふさわしいものと考えて選んだと付言した。
次いで、日印友好議連の副会長と幹事長、日印協会の副会長、斎木昭隆外務次官ほかの来賓のお名前を読み上げ、順次ひな壇に登段いただき、モディ首相にご挨拶いただいた。モディ首相が、スピーチの中で、女性政治家の役割の重要性に触れたので、筆者より急ぎお願いし、出席していた、猪口邦子、片山さつき、高木美智代の3人の女性議員に起立してご挨拶頂いた。
以前、マンモハン・シン首相の歓迎会を同じ場所で開催した際は、十分な時間が取れたので、参会者全員が登壇して握手することができたが、今回は1時間と時間が切られたため、一般の国会議員や協会の会員の皆様からの個々のご挨拶は割愛せざるを得なかった。席上、釈明させていただいたが、出席をお断りせざるを得なかった会員の方々に対し、あらためてお詫び申しあげたいと思う。
その後モディ首相には、筆者による解説つきで、協会が保有する日印関係の最も重要な局面を撮影した写真パネルをご覧いただいた。その途中、モディ首相は、座っておられた三角顧問の席で、自らもしゃがんで同じ目線で親しく声をかけた。モディ首相は、スピーチの中でも言及したが、あらためて三角顧問に対し、ビデオチームを日本に派遣し、三角顧問が知っておられる日印関係の歴史につき話を伺う機会いをいただきたいとしてオラル・ヒストリー作成に意欲を示した。突然の要請に対し三角顧問は多少戸惑った様であるが、これを受け入れたので、首相は満足げであった。
全てのプログラムを終えたモディ首相一行は、参会者の盛大な拍手に送られて退席し、玄関において森、町村両会長と筆者が、再会を約してお見送りした。
なお、日本・インド首脳会談の概要については、外務省HPをご参照下さい。