日印協会代表理事・理事長 平林博記
6月26日、インド下院総選挙で大勝したインド人民党(BJP)のナレンドラ・モディ首相が就任した。10年ぶりの政権交代であった。
「世界最大の民主主義」と言われるインドの総選挙は、大ごとである。人口が12億以上あるので、有権者も8億を優に超える。投票は、4月から5月にかけて、全国で9回に分けて行われた。このように大規模な総選挙が、曲がりなりにも秩序立って行われ、その結果を国民が粛々と受け容れるところに、インド民主主義の成熟度が見て取れるのである。
2004年以来、2期10年(インドの下院の任期は5年)続いた国民会議派(コングレス)中心の連立政権(統一進歩同盟UPA)が大敗を喫した。野党第1党であったインド人民党(BJP)が、単独で、下院(545議席、ただし2議席は大統領の直接指名なので選挙の対象外)の過半数を上回る281議席を獲得した。連立与党11党の54議席と合わせると、与党は下院で圧倒的な多数となった。
筆者は、1998年3月から2002年10月まで約4年8カ月、駐インド大使を務めたが、任期はBJP率いる国民民主同盟(NDA)政権とフルに重なった。A. B. バジパイ首相、閣内第2のL. K. アドバニ内務大臣などの指導者と親しく接した。外相となったスシュマ・スワラジ女史、財務大臣兼国防大臣兼企業大臣のアルン・ジャイトリー氏などが要職に就いたことを喜んでいる。とくに、スワラジ女史は通信大臣の職にあったが、筆者が毎年12月の主催した日本大使公邸での天皇誕生日などには、副大統領などともよく出席していただいたものだ。
筆者は、早速、6月初めに、日印協会を代表してデリーに飛んだ。アドバニ元内務大臣、アルン・ショウリー元民営化大臣、タルン・ヴィジェイ上院議員を含むBJPの要人やアシュラニ・クマール国民会議派上院議員(元科学技術大臣)などの政治家のほか、新政権で外交の第一線に当たるアジット・ドヴァル国家安全保障補佐官やスジャータ・シン外務次官(女性)などの高官に会ってきた。
BJPは、欧米ではヒンズー至上主義政党として警戒する向きもあるが、筆者は何となく親しみを感じる。筆者のインド着任2カ月後の1998年5月に、BJP政権は突然核実験を行い、筆者は日本政府を代表して抗議をしたりODAを停止したりして苦労した。しかし、その後2年有余の修復過程でNDA政権は米国など欧州諸国との和解を達成し、日印関係も、2000年8月の森喜朗総理(現在、日印協会会長)の訪印と「日印グローバル・パートナーシップ」の樹立(その後、第1次安倍内閣のもとで「戦略的グローバル・パートナーシップ」に昇格)により、再度軌道に乗った。BJPは、親日的である。親日度は、国民会議派以上かもしれない。
BJPの大勝利は、1980年のBJP結党以来の快挙であるが、国民会議派の敵失もあった。マンモハン・シン首相率いるUPA政府は、最初の5年間は順調であったが、2期目に入ると経済改革にも消極的になり、長期政権は汚職も招いた。有権者の不満や飽きも誘った。国民会議派のプリンスとされ、シン首相の後継者とされたラフール・ガンジー副総裁(暗殺された故ラジブ・ガンジー首相とソニア現国民会議派総裁の長男)は、内閣の要職にもつかず党務に専念したが、期待に反して同党は、全インドでたった44議席しか取れなかった。ネルー首相、インディラ・ガンジー首相、ラジブ・ガンジー首相と続いた栄光ある「ネルー・ガンジー王朝」を継承することはできず、その落日を印象付けてしまった。
モディ首相は、2001年から今回の選挙直前まで、グジャラート州首相であった。Vivrant Gujarat(躍動するグジャラート州)の標語のもとで、インフラ作りや電力網の整備、外国企業の誘致など、経済政策で指導力を発揮した。タタ自動車による西ベンガル州での超小型自動車(ナノ)工場建設計画が頓挫するや、直ちにグジャラート州の州有地を提供し、また、スズキの第三工場の同州誘致を決めた。
モディ首相は、これまでの多くの首相と異なり、低いカースト階級、法律用語では「その他の後進カースト、Other Backward Caste」と称する階層の出身である。子供の頃は、街でお茶を売っていたよし。長ずるにつれヒンズー・ナショナリズムに共感を覚え、ヒンズー主義団体RSS(民族奉仕団)に入会した。1985年にはその政治ウイングであるBJPに入って政治家となり、次第に頭角を現した。2001年にグジャラート州の首相に就任した。
2002年、グジャラート州において列車火災事故が発生し、巡礼帰りのヒンズー教徒約60人が亡くなり多数のけが人が出たが、これはイスラム教徒の襲撃によるものだとの噂が流れ、過激なヒンズー教徒がイスラム教徒を襲った。モディ州首相は、その取り締まりを怠った、ひいては煽ったのではないかとの批判を浴びた。筆者も、この事件には驚いたが、その後、インド国内の反BJP勢力や欧米諸国は、モディ首相の責任として厳しく追及した。米国や欧州諸国の一部は、モディ州首相に対する入国査証の発給を行わないことに決めたほどであった。
モディ首相は、総選挙の最中あちこちで遊説したが、グジャラート州での成功をインド全土に広げて経済振興を図ることを約束した。また、「最小の政府で最大のガバナンス」の標語を掲げて政治の刷新、公務員の削減、汚職追放などを訴えて、人心を掌握した。
モディ首相は、内閣の若返りを狙い、閣僚の年齢制限を75とした。これにより、BJPの長老を「敬して遠ざけ」たのである。L. K. アドヴァニ元内務大臣、ジャスワント・シン元外務大臣、ヤスワント・シンハ元財務大臣、M. M. ジョシ元人的資源大臣などは、入閣しなかった。また、「最小の政府」かどうかわからないが、閣内・閣外の閣僚を合わせて46人とし、前政権の70人から3分の2に減らした。閣内大臣のうち4人は、連立パートナーの4党から起用した。女性閣僚は7人。閣僚の平均年齢は約58歳。
モディ首相は、「最大のガバナンス」を実行すべく、早速閣僚に対し、各省におけるネポティズム人事の廃止、閣僚の家族や親戚の関係する企業への政府調達の禁止を指示した。
では、新政権が日印関係に及ぼす影響は、どうであろうか。
インドは、全体として、日本を尊敬し日本人を高く評価する親日国である。政党は、右派から左派まで超党派で親日だ。
とくにモディ首相は、親日家として知られる。過去に、2度、グジャラート州首相として訪日している。モディ首相は、隣国ブータンとネパールを除いては、最初の域外訪問国としてわが国を優先する姿勢である。夏休み明けには訪日が期待される。
モディ首相の改革志向の経済政策は、アベノミクスをもじってモディノミクスと称され、インド内外の期待が大きい。BJPは、外交安全保障政策上、中国に対して国民会議派以上に厳しい認識を持っており、この点も日本にとって心強い。
敬虔なヒンズー教徒であるモディ首相は、わが国を仏教国であると認識し、日本との精神的つながりを重視する。仏教は、釈迦がかつてのバラモン教(現在のヒンズー教の原型)を改革したものであり、その教えには共通項が多いからである。インドは、日本人の資質を評価し、日本の協力によるインフラ建設、日本企業の対印進出、さらにアジアの平和と安定のための日印安全保障協力に期待するが、モディ首相にはその傾向が強い。
安倍総理とモディ首相はウマが合う。総選挙での圧倒的な勝利と国民的人気の点でも安倍政権と似ている。共に、下院(インドのLok Sabha; 日本の衆議院)で圧倒的な多数を持っているが、上院(インドのRaja Sabha; 日本の参議院)では過半数には及ばず、いわゆるねじれ国会に直面している点も共通である。日印関係は、多くの考えを共有し、ともに長期政権を予想される両首相によって、さらなる高みに登ることを期待したい。
なお、安倍首相は、BJP勝利の直後、モディ氏に電話で祝意を伝えた。その際、モディ氏は、森喜朗日印協会会長の消息を尋ね、一度お目にかかったが再会を楽しみにしていると述べた由。さらにモディ首相は、モディとモリは発音が似ていると冗談を述べて親しみを表した。この話を聞いた森会長は、早速モディ首相への親書を書き、デリーを訪問する筆者に託した、筆者は、さすがにモディ首相本人には会えなかったが、筆者の旧知であり、今般、筆頭の補佐官となったアジット・ドヴァル国家安全保障補佐官と首相府で面会し、森会長の親書をモディ首相に渡すように託した。
モディ首相は、秋口には訪日するが、日印協会は、日印友好議員連盟(会長は町村信孝衆議院議員、元外相。官房長官など)と共催で、歓迎レセプションを行うのを楽しみにしている。
(了)
6月26日、インド下院総選挙で大勝したインド人民党(BJP)のナレンドラ・モディ首相が就任した。10年ぶりの政権交代であった。
「世界最大の民主主義」と言われるインドの総選挙は、大ごとである。人口が12億以上あるので、有権者も8億を優に超える。投票は、4月から5月にかけて、全国で9回に分けて行われた。このように大規模な総選挙が、曲がりなりにも秩序立って行われ、その結果を国民が粛々と受け容れるところに、インド民主主義の成熟度が見て取れるのである。
2004年以来、2期10年(インドの下院の任期は5年)続いた国民会議派(コングレス)中心の連立政権(統一進歩同盟UPA)が大敗を喫した。野党第1党であったインド人民党(BJP)が、単独で、下院(545議席、ただし2議席は大統領の直接指名なので選挙の対象外)の過半数を上回る281議席を獲得した。連立与党11党の54議席と合わせると、与党は下院で圧倒的な多数となった。
筆者は、1998年3月から2002年10月まで約4年8カ月、駐インド大使を務めたが、任期はBJP率いる国民民主同盟(NDA)政権とフルに重なった。A. B. バジパイ首相、閣内第2のL. K. アドバニ内務大臣などの指導者と親しく接した。外相となったスシュマ・スワラジ女史、財務大臣兼国防大臣兼企業大臣のアルン・ジャイトリー氏などが要職に就いたことを喜んでいる。とくに、スワラジ女史は通信大臣の職にあったが、筆者が毎年12月の主催した日本大使公邸での天皇誕生日などには、副大統領などともよく出席していただいたものだ。
筆者は、早速、6月初めに、日印協会を代表してデリーに飛んだ。アドバニ元内務大臣、アルン・ショウリー元民営化大臣、タルン・ヴィジェイ上院議員を含むBJPの要人やアシュラニ・クマール国民会議派上院議員(元科学技術大臣)などの政治家のほか、新政権で外交の第一線に当たるアジット・ドヴァル国家安全保障補佐官やスジャータ・シン外務次官(女性)などの高官に会ってきた。
BJPは、欧米ではヒンズー至上主義政党として警戒する向きもあるが、筆者は何となく親しみを感じる。筆者のインド着任2カ月後の1998年5月に、BJP政権は突然核実験を行い、筆者は日本政府を代表して抗議をしたりODAを停止したりして苦労した。しかし、その後2年有余の修復過程でNDA政権は米国など欧州諸国との和解を達成し、日印関係も、2000年8月の森喜朗総理(現在、日印協会会長)の訪印と「日印グローバル・パートナーシップ」の樹立(その後、第1次安倍内閣のもとで「戦略的グローバル・パートナーシップ」に昇格)により、再度軌道に乗った。BJPは、親日的である。親日度は、国民会議派以上かもしれない。
BJPの大勝利は、1980年のBJP結党以来の快挙であるが、国民会議派の敵失もあった。マンモハン・シン首相率いるUPA政府は、最初の5年間は順調であったが、2期目に入ると経済改革にも消極的になり、長期政権は汚職も招いた。有権者の不満や飽きも誘った。国民会議派のプリンスとされ、シン首相の後継者とされたラフール・ガンジー副総裁(暗殺された故ラジブ・ガンジー首相とソニア現国民会議派総裁の長男)は、内閣の要職にもつかず党務に専念したが、期待に反して同党は、全インドでたった44議席しか取れなかった。ネルー首相、インディラ・ガンジー首相、ラジブ・ガンジー首相と続いた栄光ある「ネルー・ガンジー王朝」を継承することはできず、その落日を印象付けてしまった。
モディ首相は、2001年から今回の選挙直前まで、グジャラート州首相であった。Vivrant Gujarat(躍動するグジャラート州)の標語のもとで、インフラ作りや電力網の整備、外国企業の誘致など、経済政策で指導力を発揮した。タタ自動車による西ベンガル州での超小型自動車(ナノ)工場建設計画が頓挫するや、直ちにグジャラート州の州有地を提供し、また、スズキの第三工場の同州誘致を決めた。
モディ首相は、これまでの多くの首相と異なり、低いカースト階級、法律用語では「その他の後進カースト、Other Backward Caste」と称する階層の出身である。子供の頃は、街でお茶を売っていたよし。長ずるにつれヒンズー・ナショナリズムに共感を覚え、ヒンズー主義団体RSS(民族奉仕団)に入会した。1985年にはその政治ウイングであるBJPに入って政治家となり、次第に頭角を現した。2001年にグジャラート州の首相に就任した。
2002年、グジャラート州において列車火災事故が発生し、巡礼帰りのヒンズー教徒約60人が亡くなり多数のけが人が出たが、これはイスラム教徒の襲撃によるものだとの噂が流れ、過激なヒンズー教徒がイスラム教徒を襲った。モディ州首相は、その取り締まりを怠った、ひいては煽ったのではないかとの批判を浴びた。筆者も、この事件には驚いたが、その後、インド国内の反BJP勢力や欧米諸国は、モディ首相の責任として厳しく追及した。米国や欧州諸国の一部は、モディ州首相に対する入国査証の発給を行わないことに決めたほどであった。
モディ首相は、総選挙の最中あちこちで遊説したが、グジャラート州での成功をインド全土に広げて経済振興を図ることを約束した。また、「最小の政府で最大のガバナンス」の標語を掲げて政治の刷新、公務員の削減、汚職追放などを訴えて、人心を掌握した。
モディ首相は、内閣の若返りを狙い、閣僚の年齢制限を75とした。これにより、BJPの長老を「敬して遠ざけ」たのである。L. K. アドヴァニ元内務大臣、ジャスワント・シン元外務大臣、ヤスワント・シンハ元財務大臣、M. M. ジョシ元人的資源大臣などは、入閣しなかった。また、「最小の政府」かどうかわからないが、閣内・閣外の閣僚を合わせて46人とし、前政権の70人から3分の2に減らした。閣内大臣のうち4人は、連立パートナーの4党から起用した。女性閣僚は7人。閣僚の平均年齢は約58歳。
モディ首相は、「最大のガバナンス」を実行すべく、早速閣僚に対し、各省におけるネポティズム人事の廃止、閣僚の家族や親戚の関係する企業への政府調達の禁止を指示した。
では、新政権が日印関係に及ぼす影響は、どうであろうか。
インドは、全体として、日本を尊敬し日本人を高く評価する親日国である。政党は、右派から左派まで超党派で親日だ。
とくにモディ首相は、親日家として知られる。過去に、2度、グジャラート州首相として訪日している。モディ首相は、隣国ブータンとネパールを除いては、最初の域外訪問国としてわが国を優先する姿勢である。夏休み明けには訪日が期待される。
モディ首相の改革志向の経済政策は、アベノミクスをもじってモディノミクスと称され、インド内外の期待が大きい。BJPは、外交安全保障政策上、中国に対して国民会議派以上に厳しい認識を持っており、この点も日本にとって心強い。
敬虔なヒンズー教徒であるモディ首相は、わが国を仏教国であると認識し、日本との精神的つながりを重視する。仏教は、釈迦がかつてのバラモン教(現在のヒンズー教の原型)を改革したものであり、その教えには共通項が多いからである。インドは、日本人の資質を評価し、日本の協力によるインフラ建設、日本企業の対印進出、さらにアジアの平和と安定のための日印安全保障協力に期待するが、モディ首相にはその傾向が強い。
安倍総理とモディ首相はウマが合う。総選挙での圧倒的な勝利と国民的人気の点でも安倍政権と似ている。共に、下院(インドのLok Sabha; 日本の衆議院)で圧倒的な多数を持っているが、上院(インドのRaja Sabha; 日本の参議院)では過半数には及ばず、いわゆるねじれ国会に直面している点も共通である。日印関係は、多くの考えを共有し、ともに長期政権を予想される両首相によって、さらなる高みに登ることを期待したい。
なお、安倍首相は、BJP勝利の直後、モディ氏に電話で祝意を伝えた。その際、モディ氏は、森喜朗日印協会会長の消息を尋ね、一度お目にかかったが再会を楽しみにしていると述べた由。さらにモディ首相は、モディとモリは発音が似ていると冗談を述べて親しみを表した。この話を聞いた森会長は、早速モディ首相への親書を書き、デリーを訪問する筆者に託した、筆者は、さすがにモディ首相本人には会えなかったが、筆者の旧知であり、今般、筆頭の補佐官となったアジット・ドヴァル国家安全保障補佐官と首相府で面会し、森会長の親書をモディ首相に渡すように託した。
モディ首相は、秋口には訪日するが、日印協会は、日印友好議員連盟(会長は町村信孝衆議院議員、元外相。官房長官など)と共催で、歓迎レセプションを行うのを楽しみにしている。
(了)