警視庁監修『自警』に、平林博理事長の小論文が、昨年4月から連続掲載中です。3月号では、インドについても言及しておりますので、下記の通り転載致します。
◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇
インド、トルコ、ミャンマー。共通項は? 正解は、世界でも「超」のつく親日国だ。インドやトルコは興隆著しく、ミャンマーはようやく国際社会で復権を果たそうとしている。
英国植民地ビルマでは、第2次大戦中に進軍した日本軍が藤原機関などを通じてアウンサン将軍などが率いるビルマ義勇軍の設立を支援し、共闘して英国軍を駆逐した。1943年にはバー・モウを首班としてビルマが独立し、彼は同年11月、日本の影響下にあったアジアの首脳を集めた東京での大東亜会議にも出席した。しかし、わが国の南方軍が援蒋ルートの切断を狙って強行したインパール作戦は失敗し、ビルマはまた英国の支配下に堕ちた。この間のビルマとわが国の関わり合いの一端は、映画にもなった竹山道雄作「ビルマの竪琴」で知られることになった。
1948年ビルマは独立し、ネ・ウイン将軍が政権を握った。1962年にはクーデタによってビルマ社会主義計画党の一党独裁体制に移行した。ネ・ウインは1988年に退陣したが、タン・シュエ将軍のもとで、国家法秩序回復委員会(SLORC)次いで国家平和発展評議会(SPDC)が支配する軍政が継続した。これに反発して民主化を求める大衆運動が、建国の英雄アウンサンの娘スーチー女史の指導で盛り上がった。1990年に選挙がおこなわれ、女史率いる国民民主連盟と民族政党が勝利したが、タン・シュエ軍政はこの結果を受け入れず、スーチー女史を長期にわたって自宅軟禁に追いやった。89年には、軍政は国名をミャンマーに変更した。軍政とアウンサン・スーチー女史軟禁の長期化により、欧米諸国はミャンマーに対し経済制裁を導入、強化した。国際的孤立を余儀なくされたミャンマーは北の隣国中国に接近した。
この間、わが国は、この親日国を何とか民主化と国際社会復帰への軌道に戻そうとした。ODA停止も最小限にするなど配慮した。筆者も、橋本龍太郎内閣で外政審議室長を務めていた当時の1997年、橋本首相の指示により首相特使としてミャンマーに赴き、タン・シュエ議長に続くNO.2のキン・ニュン首相に会って民主化を慫慂したことがある。そのキン・ニュン首相も2004年には更迭された。
2007年に至り、ティン・セイン将軍が就任すると、軍主導ではあるが民主化促進措置が取られ、2010年には新憲法に基づく総選挙が行われ、アウンサン・スーチー女史も自宅軟禁を解かれた。2011年、ティン・セインは大統領に就任し、政権もSPDCから新政府に移譲された。各国はこの機をとらえ、急速にミャンマーに接近し、各種の制裁を解除し始めた。クリントン米国務長官をはじめ、ミャンマーに厳しく当たってきた主要国の外務大臣などが矢継ぎ早に訪問、わが国もこの流れに乗った。わが国は、制裁下においても外務大臣レベルなどで対話を持ってきた。昨年11月には、インドネシアのバリ島での東アジア首脳会議などに出席した野田佳彦首相は、民政移管後初めてティン・セイン大統領との首脳会談を行った。各国の急速なミャンマー接近は、豊富な資源目当てであったり、中国の過度の進出を牽制するためであったりするが、わが国には、伝統的に親日であるミャンマーへの心情的な同情もある。ミャンマーの国際社会への復帰は大いに歓迎されるところである。
インドは、仏教が取り持つ絆に加え、明治以来の日本の目覚ましい近代化に刺激を受けた。日露戦争での日本の勝利は独立運動中のインド人をいたく鼓舞した。日本は、1914年、英国から指名手配された独立の志士ビハリ・ボースの亡命を受け入れ、第二次大戦が始まると、もう一人の独立の志士チャンドラ・ボースを支援した。ビハリ・ボースは、日本軍がマレーやシンガポールで英国軍を降伏させた際に捕虜にしたインド人将兵を集めてインド国民軍を創設し、またインド独立連盟を創設した。これを受けてドイツから戻ったチャンドラ・ボースは、シンガポールにおいて、インド国民軍司令官かつ自由インド仮政府の首班となった。インパール作戦では日本の南方軍とインド国民軍は協力してビルマから東北インドに入り、英軍と戦った。作戦は苛烈な自然と乏しい兵站のために失敗はしたが、インドの独立を支援した日本のイメージはインド人の胸に深く刻まれた。
インドは1947年に独立したが、インド人の親日感情は変わらず、今日に至っている。戦後の極東軍事裁判でのパル判事の無罪の主張のほか、娘の名をつけた仔象インディラの上野動物園への寄贈や復興に必須であった鉄鉱石の対日優先供給などのネルー首相の好意は際立っていた。インドの国会は、毎年8月6日の広島原爆投下の日に黙祷をささげている。昭和天皇崩御の際には、国際的には異例の「国喪」を宣言した。そのインドは、今や新興大国として国際場裏でますます重みを増している。日印両国は、両国政府が謳う標語どおりの「戦略的グローバル・パートナーシップ」を推進中である。本年は、両国が国交樹立して60周年の節目である。
トルコも大の親日国である。
原点は、エルトゥールル号事件にさかのぼる。1889年、明治政府が皇族をオスマン・トルコ政府に派遣した答礼として、トルコは明治政府にエルトゥールル号で親善使節を派遣した。しかし、同船は、帰路和歌山沖で台風に遭遇して沈没し、587名が死亡した。和歌山住民の決死の救援活動により69名の乗組員が救助され、明治政府は2隻の巡洋艦により丁重に送り届けた。わが国への評価は一気に高まった。
イラン・イラク戦争中の1985年、イラクがイラン領空を飛行するすべての航空機を攻撃すると宣言したため、イランの在留邦人250人が孤立した。トルコは日本の要請を受け、ギリギリのタイミングで特別機をテヘランに飛ばし、邦人を救出したのであった。
トルコは、1953~56年のクリミア戦争においてロシア帝国と戦い多大の損害を受けた経緯もあり、日露戦争においてロシアに勝利した日本に特別の親近感を持っている。
トルコは、アジアとヨーロッパにまたがる東西文明の十字路である。その間に横たわるボスフォラス海峡にかかる巨大な二つの橋の一つは日本が建設した。現在、ボスフォラス海峡をくぐるトンネルが日本の協力で建設中である。このようなトルコは、穏健なイスラムの大国として、「アラブの春」が吹きまくり、またイランの核開発に揺れる中東において、その重みを増している。また、好調なトルコ経済は、新興国(BRICSに続くNEXT11)の仲間入りをさせ,さらにG20の一員に押し上げた。親日国は世界中に広がっているが、力をつけた親日諸国が世界で重きをなすに至ったことは、日本にとってまことに心強いことである。
[『自警』2012年3月号
「日本から見た世界 世界から見た日本 第12話」より転載]
平林博
公益財団法人日印協会 理事長・日本国際フォーラム 副理事長
1940年東京生まれ。東京大学卒業後、1963年外務省入省。
1991年から2007年までに、在米国日本大使館経済公使、次いで同大使館特命全権公使、外務省経済協力局長、総理官邸の内閣外政審議室長、
駐インド特命全権大使、駐フランス特命全権大使、査察大使をそれぞれ歴任。
現在、グローバル・フォーラム有識者世話人、東アジア共同体評議会常任副議長等を兼任。
バックナンバーをご覧になりたい方は、日本国際フォーラムホームページのトップページの右下の副理事長最新論文のコラムをご参照下さい。
公益財団法人日本国際フォーラム
URL http://www.jfir.or.jp/j/index.htm
◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇-◆-◇
インド、トルコ、ミャンマー。共通項は? 正解は、世界でも「超」のつく親日国だ。インドやトルコは興隆著しく、ミャンマーはようやく国際社会で復権を果たそうとしている。
英国植民地ビルマでは、第2次大戦中に進軍した日本軍が藤原機関などを通じてアウンサン将軍などが率いるビルマ義勇軍の設立を支援し、共闘して英国軍を駆逐した。1943年にはバー・モウを首班としてビルマが独立し、彼は同年11月、日本の影響下にあったアジアの首脳を集めた東京での大東亜会議にも出席した。しかし、わが国の南方軍が援蒋ルートの切断を狙って強行したインパール作戦は失敗し、ビルマはまた英国の支配下に堕ちた。この間のビルマとわが国の関わり合いの一端は、映画にもなった竹山道雄作「ビルマの竪琴」で知られることになった。
1948年ビルマは独立し、ネ・ウイン将軍が政権を握った。1962年にはクーデタによってビルマ社会主義計画党の一党独裁体制に移行した。ネ・ウインは1988年に退陣したが、タン・シュエ将軍のもとで、国家法秩序回復委員会(SLORC)次いで国家平和発展評議会(SPDC)が支配する軍政が継続した。これに反発して民主化を求める大衆運動が、建国の英雄アウンサンの娘スーチー女史の指導で盛り上がった。1990年に選挙がおこなわれ、女史率いる国民民主連盟と民族政党が勝利したが、タン・シュエ軍政はこの結果を受け入れず、スーチー女史を長期にわたって自宅軟禁に追いやった。89年には、軍政は国名をミャンマーに変更した。軍政とアウンサン・スーチー女史軟禁の長期化により、欧米諸国はミャンマーに対し経済制裁を導入、強化した。国際的孤立を余儀なくされたミャンマーは北の隣国中国に接近した。
この間、わが国は、この親日国を何とか民主化と国際社会復帰への軌道に戻そうとした。ODA停止も最小限にするなど配慮した。筆者も、橋本龍太郎内閣で外政審議室長を務めていた当時の1997年、橋本首相の指示により首相特使としてミャンマーに赴き、タン・シュエ議長に続くNO.2のキン・ニュン首相に会って民主化を慫慂したことがある。そのキン・ニュン首相も2004年には更迭された。
2007年に至り、ティン・セイン将軍が就任すると、軍主導ではあるが民主化促進措置が取られ、2010年には新憲法に基づく総選挙が行われ、アウンサン・スーチー女史も自宅軟禁を解かれた。2011年、ティン・セインは大統領に就任し、政権もSPDCから新政府に移譲された。各国はこの機をとらえ、急速にミャンマーに接近し、各種の制裁を解除し始めた。クリントン米国務長官をはじめ、ミャンマーに厳しく当たってきた主要国の外務大臣などが矢継ぎ早に訪問、わが国もこの流れに乗った。わが国は、制裁下においても外務大臣レベルなどで対話を持ってきた。昨年11月には、インドネシアのバリ島での東アジア首脳会議などに出席した野田佳彦首相は、民政移管後初めてティン・セイン大統領との首脳会談を行った。各国の急速なミャンマー接近は、豊富な資源目当てであったり、中国の過度の進出を牽制するためであったりするが、わが国には、伝統的に親日であるミャンマーへの心情的な同情もある。ミャンマーの国際社会への復帰は大いに歓迎されるところである。
インドは、仏教が取り持つ絆に加え、明治以来の日本の目覚ましい近代化に刺激を受けた。日露戦争での日本の勝利は独立運動中のインド人をいたく鼓舞した。日本は、1914年、英国から指名手配された独立の志士ビハリ・ボースの亡命を受け入れ、第二次大戦が始まると、もう一人の独立の志士チャンドラ・ボースを支援した。ビハリ・ボースは、日本軍がマレーやシンガポールで英国軍を降伏させた際に捕虜にしたインド人将兵を集めてインド国民軍を創設し、またインド独立連盟を創設した。これを受けてドイツから戻ったチャンドラ・ボースは、シンガポールにおいて、インド国民軍司令官かつ自由インド仮政府の首班となった。インパール作戦では日本の南方軍とインド国民軍は協力してビルマから東北インドに入り、英軍と戦った。作戦は苛烈な自然と乏しい兵站のために失敗はしたが、インドの独立を支援した日本のイメージはインド人の胸に深く刻まれた。
インドは1947年に独立したが、インド人の親日感情は変わらず、今日に至っている。戦後の極東軍事裁判でのパル判事の無罪の主張のほか、娘の名をつけた仔象インディラの上野動物園への寄贈や復興に必須であった鉄鉱石の対日優先供給などのネルー首相の好意は際立っていた。インドの国会は、毎年8月6日の広島原爆投下の日に黙祷をささげている。昭和天皇崩御の際には、国際的には異例の「国喪」を宣言した。そのインドは、今や新興大国として国際場裏でますます重みを増している。日印両国は、両国政府が謳う標語どおりの「戦略的グローバル・パートナーシップ」を推進中である。本年は、両国が国交樹立して60周年の節目である。
トルコも大の親日国である。
原点は、エルトゥールル号事件にさかのぼる。1889年、明治政府が皇族をオスマン・トルコ政府に派遣した答礼として、トルコは明治政府にエルトゥールル号で親善使節を派遣した。しかし、同船は、帰路和歌山沖で台風に遭遇して沈没し、587名が死亡した。和歌山住民の決死の救援活動により69名の乗組員が救助され、明治政府は2隻の巡洋艦により丁重に送り届けた。わが国への評価は一気に高まった。
イラン・イラク戦争中の1985年、イラクがイラン領空を飛行するすべての航空機を攻撃すると宣言したため、イランの在留邦人250人が孤立した。トルコは日本の要請を受け、ギリギリのタイミングで特別機をテヘランに飛ばし、邦人を救出したのであった。
トルコは、1953~56年のクリミア戦争においてロシア帝国と戦い多大の損害を受けた経緯もあり、日露戦争においてロシアに勝利した日本に特別の親近感を持っている。
トルコは、アジアとヨーロッパにまたがる東西文明の十字路である。その間に横たわるボスフォラス海峡にかかる巨大な二つの橋の一つは日本が建設した。現在、ボスフォラス海峡をくぐるトンネルが日本の協力で建設中である。このようなトルコは、穏健なイスラムの大国として、「アラブの春」が吹きまくり、またイランの核開発に揺れる中東において、その重みを増している。また、好調なトルコ経済は、新興国(BRICSに続くNEXT11)の仲間入りをさせ,さらにG20の一員に押し上げた。親日国は世界中に広がっているが、力をつけた親日諸国が世界で重きをなすに至ったことは、日本にとってまことに心強いことである。
[『自警』2012年3月号
「日本から見た世界 世界から見た日本 第12話」より転載]
平林博
公益財団法人日印協会 理事長・日本国際フォーラム 副理事長
1940年東京生まれ。東京大学卒業後、1963年外務省入省。
1991年から2007年までに、在米国日本大使館経済公使、次いで同大使館特命全権公使、外務省経済協力局長、総理官邸の内閣外政審議室長、
駐インド特命全権大使、駐フランス特命全権大使、査察大使をそれぞれ歴任。
現在、グローバル・フォーラム有識者世話人、東アジア共同体評議会常任副議長等を兼任。
バックナンバーをご覧になりたい方は、日本国際フォーラムホームページのトップページの右下の副理事長最新論文のコラムをご参照下さい。
公益財団法人日本国際フォーラム
URL http://www.jfir.or.jp/j/index.htm