1998年3月からのインドのバジパイ内閣(インド人民党中心の国民民主連合―National Democratic Alliance内閣)で国防大臣を務めたジョージ・フェルナンデス氏が、1月29日、逝去されました。享年、88歳。
駐インド日本大使として多くの接点を持った筆者はこの訃報に接して、同氏を悼んで偲び、少しでも多くの人々に紹介したいと考えて下記を記すことにしました。
筆者が駐インド大使であった1998年から2002年までの間、フェルナンデス氏は筆者が最も尊敬し親しく付き合った政治家で、バジパイ内閣で一貫して国防大臣を務めました。さらに、NDAは18内外の中小政党が連立を組んだ内閣でしたが、フェルナンデス大臣は、1994年にJanata Dal(人民党)を解消して設立したSamata Partyの総裁となり、NDA政権では、諸政党の調整役Convenorを務め、とかく利害の一致しない連立諸政党の団結を確保しました。まったく飾り気のない政治家で、庶民が日常着るラフな服装で、庶民目線でモノを考える政治家でした。チベットが中国に侵略されたことに怒り、チベット人のインド亡命を支援し、同じ考えを持っていた野呂田芳成衆議院議員(防衛庁長官などを歴任)とともに、チベット人支援に熱心に取り組まれました。また、労働者の味方をもって任じボンベイでは多くのストライキを含めた労使紛争を指導し、鉄道大臣としてはインド南西部のコンカン鉄道建設を進めました。
筆者が駐インド大使として着任した2か月後の1998年5月、インドは核実験を強行しました。核実験の立役者の一人でしたが、本来は核兵器反対論であり、また「超」のつく親日家でした。わが国はこれに抗議し、新規の政府開発援助(ODA)も停止しました。核実験に抗議する筆者に対し、フェルナンデス大臣曰く。「インドの核実験は中国の核に対する抑止力を示すために已むに已まれず行ったものであり、本来は核兵器には大反対である。日本が唯一の核兵器被災国として抗議する気持ちは十分理解するので、米欧など諸外国の経済制裁などには反発するが、貴大使の抗議や日本政府による政府開発援助(ODA)の停止措置については甘んじて受ける。」(注1)
ある時、フェルナンデス大臣は、筆者との話の中から、上野動物園に子象を送ることになりました。筆者が日印関係の話をした際に、一つの逸話を紹介しました。
「太平洋戦争中に上野動物園の象や猛獣が米軍の爆撃の際に脱出して人々に危害を加えるようになることを防ぐために、彼らを毒殺せざるを得ませんでした。終戦となり、廃墟と化した東京の上野動物園の界隈の子供たちが何とか象を見たいと念じ、ネルー首相に手書きで直訴したところ、首相は娘(将来のインディラ・ガンジー首相)の名をとってインディラと命名した子象を寄贈してくれました。その際に立ち会ったインド代表の令嬢がいたが、何を隠そう、その方は現在貴大臣の奥様役のパートナーとなっているジャヤ・ジャイットリー女史なのです。その後、インディラ象がなくなると、すでに首相となっていたインディラ・ガンジーさんはたいそう悲しんで、「アーシャ(希望)」と「ダヤー(慈悲)」と命名した2頭の子象を送ってくれました。現在、この2頭が、上野動物園で観客に愛嬌を振りまいています。」と紹介しました。
フェルナンデス大臣は自分のパートナーがそのような経歴を持っていたとは知らなかったらしく、大変驚くとともに、自分も子象を寄贈したいと言い出しました。筆者は上野動物園に相談した結果快諾を得たので、大臣からの象の寄贈が決まりました。大臣は、選挙区のあるビハール州で子象を調達しました。大臣から筆者に対し、どのような名前を付けようかと相談がありましたが、筆者は「大臣の子象だから大臣自身が命名するべきだ」と伝えたところ、しばらくしてから「スーリアではどうだろうか。スーリアは、ヒンズー教の太陽神であるので『Rising Sun 日出る国』にふさわしいのではないか。」と提案してきました。筆者は、一も二もなく賛成しました。こうして、現在、上野動物園には3頭のインド象(プラス1頭のタイからの雄象)がいるのです。(注2)
2001年12月、ジャンム・カシミール地方で越境テロを繰り返していたパキスタンは、ついにデリー中心部のインド国会議事堂にテロリストを送り込んできました。国会議員に死傷者は出ませんでしたが、衛視数名が死亡しました。それまでは、頻繁に繰り返されるパキスタン支配のカシミール地域から越境テロがあっても、インドは局地的に反撃するにとどめてきました。しかし、インドが誇りに思っている民主主義の殿堂が攻撃されたため、インドは腹をくくりました。本格的に軍に対する総動員令を発しました。2002年の初めから数か月間戦争準備が行われ、最盛期には50万人のインド陸軍がパキスタン国境とカシミール地方に送られ、ムンバイなどからは数十隻の艦船がパキスタン沖に展開しました。空軍も戦時体制でした。1998年の核実験で核兵器を保有することを明らかにしていた両国でしたので、戦争が始まれば、通常兵器での戦いが劣勢なパキスタン軍を核使用に向かわせ、インドは核で報復するという恐れがありました。
日本を含む諸外国は何とか戦争を回避させようと両国に働きかけました。筆者は、フェルナンデス国防大臣を含めてインド政府に働きかけました。小泉純一郎総理や川口順子外務大臣も先頭に立ちました。筆者は邦人保護の観点から、インドに在留する邦人に対し、順次国外ないしデリーから離れたインド各地に避難するように勧告を出しました。結局、諸外国の説得が聞いて戦端は開かれずに終わりました。この間、フェルナンデス大臣がどのように考えていたか、過ごしていたか、聞くチャンスは逸してしまいました。(注3)
外務省を退官後、筆者は、日印協会会長となっていた森喜朗元総理の要請で、理事長を引き受けました。年に数回インドに行くことになりましたが、いつも、フェルナンデス元大臣に再会したいと思っていました。しかし、デリーの日本大使館からの情報によると、フェルナンデス元大臣はアルツハイマー病に侵され、外部の人は面会できないとのことでした。ところが、ある時、面会の要請を伝えてもらったところ、夫人(ジャヤさんではなく正夫人)から、平林元大使なら自宅に来て会っていただいてもよいとの回答がありました。筆者は、どうしたら記憶喪失した元大臣から平林だと認めてもらえるか、考えました。結論は、元大臣が寄贈したスーリア象の写真を持参し、元気でいることを伝えようと思うに至りました。
デリー市内のフェルナンデス邸では夫人が出迎えてくれました。早速、寝室に通されました。元大臣は、質素なベッドに寝ておられました。夫人の許しを得てベッドに近寄り、耳元に口をつけんばかりに大臣の名前を呼び、平林だと告げました。反応が鈍いので、相当の大声を出しました。そのうえで、スーリア象の写真を持ってきたので見てほしいと、声を大にして頼みました。反応はほとんどありませんでしたが、心なしか、スーリア、スーリアと耳元で唱えていたら、反応があった気がしました。夫人にお見舞いの意を告げ、また特別の面会に謝意を表して辞去しました。あの活発な元国防大臣の変貌ぶりには大変心が痛みました。その後も、年に2回はインドを訪れますが、フェルナンデス元大臣の消息を聞きことはありませんでした。事柄の性質上、病床にあったフェルナンデス元大臣との会見については外に出すことはなく胸に収めてきました。
本日、インドの新聞を読んでいたらフェルナンデス元大臣の訃報が伝えられていました。筆者にとっては、思い出の多いインド政治家でありますが、ご逝去は、大使と理事長を合わせて15年になるインドとの関係に大きな一区切りをつけたように感じます。本稿をもって、筆者の心からの哀悼の辞としたいと考えます。
フェルナンデスさん、安らかにお眠りください。合掌。
(注1~3) 詳細は、拙書「最後の超大国インド:元大使が見た親日国のすべて」をご参照。