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寄稿・提言

「英雄チャンドラ・ボースの遺骨」を巡る林田達雄氏の物語

2018年8月20日掲載


2018年8月18日

日印協会参与 宮原豊


8月18日、インド独立の英雄スパス・チャンドラ・ボースの命日を迎え、東京・杉並区の日蓮宗・蓮光寺に今年も日印双方の関係者多数が参列し74回忌の法要が営まれた。戦後70有余年を経て、未だにネタジ(指導者)の遺骨は母国に帰還できないまま蓮光寺に守られているが、日印協会は毎年この日にネタジの霊前に献花、役職員が法要に参列して日印関係の深化・発展を祈念している。


1945年8月15日、日本敗戦を知って、「最後までインド独立の為に闘う」ためにソ連との連携を模索し、仏印から台北経由で大連に向かう途中、8月18日に台北・松山飛行場で離陸直前の墜落事故で帰らぬ人となった。享年48歳、志半ばの突然の死であった。台北市内の西本願寺において、一部の軍関係者だけが参列する葬儀が営まれ、その後9月5日ボースの遺骨は軍情報将校らの手により日本本土に向かう最後の軍用機で台北を出発した。


9月7日夜、東京・市ヶ谷の参謀本部に届けられたが、それはマッカーサーが厚木から東京に進駐する前夜であり、参謀本部は大混乱していたという。翌朝、遺骨と遺品はインド独立連盟日本支部長(兼自由インド仮政府駐日公使)ラマムルティとサイゴンから馳せ参じた自由インド仮政府S.A.アイヤー宣伝相に手渡された。遺品には、墜落現場に飛散する貴金属や宝石類(当時の金額で総額6億4千万円相当)が含まれていた。インド独立を支援する仏印在住インド人からの献納品いわゆる「ボースの財宝」が遺骨とともに届けられた。台北でボース配下のリーマン副官の立会いの下で作成された品目リストのとおりに、大混乱の只中をインド自由政府関係者に引き渡されたことが確認されている。


話を転じるが、今年春に「インドのグリーン・ファーザーこと杉山龍丸」の子息である杉山満丸氏から預かった龍丸の書簡の中に、1978年6月27日付けのインド首相府次官(Joint Secretary)H.S. Shahが龍丸に宛てた手紙を読んだ。「首相(モラルジー・デサイ)は6月12日付けレターで貴殿が言及しているMr. Tatsuo Hayashidaからのネタジ・スバス・ボースに関する文書を受理した。首相はいずれMr. Hayashidaに返信する」という内容である。次いで読んだ12日付けの林田達雄が発信したデサイ首相宛の上奏文は、「自分は1945年8月18日に台北で飛行機事故に遭遇したネタジの死亡を確認した。日本軍が米国に降伏した直後に遺骨と遺品を日本に運ぶのは極めて困難な任務であった。その後、遺骨は蓮光寺の望月住職に守られ、既に33年が経過した。仏法では33回忌を経て死者の魂はブッダの手中で安寧を得ていると言われる。遺骨を是非インドに帰還させていただくようお願いする。デサイ首相が杉山龍丸氏の親しい友人であると聞き、本文をしたためた。どうぞ受理されますよう。また、ネタジのことを書いた私の本を寄贈したい」という内容である。


 1945年9月、「中村屋のボース」こと志士ビハリ・ボースの側近サハイの自宅付近の杉並で、進駐軍支配下なので目立たないように葬儀を執り行うべく寺院を探す中で、蓮光寺・望月教栄住職が引き受けてくれた。当初、住職は一時的なものとの認識でネタジの遺骨を預かったが、葬儀の後に在日インド人の多くは「国家反逆罪」の容疑でインドに送還され、ネタジの遺骨だけが日本に取り残されたままとなった。


ネタジ遺骨の本国返還に関しては、サンフランシスコ講和条約の頃に大きな話題になり、望月住職は1953年にネルー首相に親書を送った。1955年8月には盛大な慰霊法要が催され、1956年5月にインド政府は「ネタジ死因調査委員会」を日本に派遣し、多くの関係者から証言を集めた。その結果、返還が確定したかに思われた寸前に3人の調査委員の一人スレス・チャンドラ・ボース(ネタジの長兄)は「ネタジは死んでいない」と言い出し、関係者を驚かせた。翌年1957年に来日したネルー首相は娘インディラ(後の首相)とともに蓮光寺を参詣し、「遺骨はいずれ祖国に返還されなければならない」と言明したので直ぐに実現するかに思われた。1957年にカルカッタに「ボース・アカデミー」が設立され、翌年日本に「スパス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が設立され、遺骨返還の動きが本格的になったものの、その後も返還は一向に進まなかった。


台湾軍司令部付情報将校の林田達雄少尉は、ネタジの遺骨を東京・大本営まで送り届けるべしとの任務を与えられ、南方軍参謀の坂井忠雄中佐らとともに軍用機で台北から福岡まで飛び、福岡からは坂井と2人で混み合う列車に乗り、胸にネタジの遺骨を抱き、遺品は座席の下に隠して東京を目指した。食事もせず一睡もせず、2人はこの困難な任務を遂行したという。1962年、林田はインド人から母国の英雄ネタジの遺骨が返還されていないことを聞き憤慨し、元々陸軍中野学校出の林田はネタジの一生涯のインド独立に捧げた政治・軍事活動から飛行機事故や死亡診断書などを調べ始めたと言う。その調査の過程で、1964年蓮光寺を参詣し、望月住職からボースの遺骨にまつわる苦労話を聞くことが出来たと言う。


林田達雄の真相究明はボースの伝記として取りまとめられ、1968年1月「悲劇の英雄―チャンドラ・ボースの生涯」(新樹社)が上梓された(日印協会所蔵)。翌年、1969年インディラ・ガンディー首相が国賓として来日し、蓮光寺を参詣した。その際には望月住職と林田は首相に遺骨返還を強く訴えた。1970年にはセシル・ボースの協力を得て「Netaji Subhas Chandra Bose; His Great Struggle and Martyrdom」をボンベイで出版、大きな反響を巻き起こした(1978年にデサイ首相に贈呈したのはこの本だったと思われる)。1971年、林田はボースの74回目の生誕祭に主賓として招かれインドを初訪問、「ネタジの肉体は滅んでも、その精神と霊魂は生きている」と演説し万雷の拍手を受ける。この年の3月にインド政府は第2次ネタジ死因調査委員会を日本に派遣したが、東パキスタン(バングラデシュ)独立戦争とも重なり、遺骨返還は実現しなかった。


 76年8月に、命日に合わせてボースの記念碑(胸像)が蓮光寺境内に建立された。これは33回忌を翌年に控えて、関係者の遺骨返還に対する強い願望を示すもので、その後も関係者は継続してインド政府に訴え続けてきたが、1991年海部首相の訪印の時に、日本側は政府として初めてインド政府に遺骨返還実現を要請した。「前向きに検討する」との電報が届いたと言われているが、その後進展しているという情報はなく、1994年のネタジの50回忌法要を経て、1997年インド独立50周年の時も記念祝賀行事は盛り上がったものの、ネタジ遺骨返還は進展しなかった。2001年12月バジパイ首相が蓮光寺参詣の折に、第3次ネタジ死因究明委員会の派遣を約束したと伝えられるが、帰国直後のパキスタン・テロリストの国会襲撃事件と翌年6月まで続いた印パ紛争危機のためか何の進展もなかった。そして、ここ数年、モディ首相によるBJP政権誕生後は、いよいよネタジの母国帰還が実現するのではないかと言われながらも、未だに明確な方針は聞こえてこない。


林田達雄は、2001年12月バジパイ首相が蓮光寺参詣した翌年の2002年3月に他界した。林田はずっと福岡市内で中華料理店(ラーメン屋)を営んでいたと言われ、そこで同じ福岡市在住のインドの砂漠緑化に尽力している杉山龍丸と出会い、前述のように1978年にデサイ首相に上奏文を書くことになった。その後の経過などからも2年強の短命に終わったデサイ首相の政権に何か出来る話ではなかったものの、福岡で出会った2人はネタジ遺骨のインド帰還のためにできる限りの努力をしたことが読み取れる。杉山龍丸は1987年68歳で早生したが、今頃2人は天国でこの事態を眺めながら何を話しているのだろう。(了)