日本にキリスト教をもたらした有名な聖フランシスコ・ザビエルの御遺体に参拝した。
12月に民間外交推進協会(FEC)の訪印団としインドの西海岸の都市ゴアを訪問したが、偶々聖人のミイラが10年ぶりに公開されていた。
聖フランシスコ・ザビエルは、1506年4月7日に、スペインの貴族の家で生を受けた。
母はカスティリア王国のイザベル女王の女官であった。
1525年19歳になったザビエルはパリのソルボンヌ大学に入学し、人文科学、ラテン語、神学や哲学を学んだ。
そこで15歳年上のイグナチオ・デ・ロヨラおよび同年齢のピエール・ファーヴルと部屋をともにした。
イグナチオの影響により、フランシスコは俗世間の夢を捨て信仰に生をささげる決意をした。
イグナチオは、1491年にバスク地方の貴族の家に生まれ、騎士になるつもりであった。
しかし、キリストや聖人の伝記などを読み、特にアッシジの聖フランシスコが福音書の教えそのままの生活と布教に従事したことに感激し、その後を追う決意をした。
法王アドリアヌス6世の許可を得て聖地エルサレムも訪れた。
1528年にパリのソルボンヌ大学に入ったイグナチオは、上記の二人のほか4人の学生をリクルートした。
彼らは1534年にはモンマルトルの丘の上のサン・ドニ聖堂で、生涯を信仰にささげ、純潔と清貧を重んじ貧者や病者に尽くす決意をした。
イエズス会(ジェズイット会、耶蘇会)誕生宣言であった。
紆余曲折を経て1540年、彼らの信仰心と使命感にいたく感心した法王パウルス3世は、新たな男子修道会を樹立することを許可した。
イグナチオが初代の総長(修道士会長)、フランシスコが秘書長に就任した。
1498年5月、ポルトガル王国の貴族ヴァスコ・ダ・ガマは南西インドのカリカットに到着し、インド航路が開かれた。
1510年、貿易の中心地となったゴアは、同地を支配していたサルタンからポルトガルの支配下にはいった。
ポルトガル王ジョアン3世は、香料貿易のほか布教にも熱心であった。
既に同地では、アッシジの聖フランシスコ教団が活躍していた。
ジョアン3世の特別の要請を受けたイグナチオは、インドにザビエルと同僚たちを送ることにした。
一行は、アフリカを経由して1542年5月、ゴアに到着した。
ザビエルは、インド東海岸からマレー半島のマラッカ、更に東のモルッカ諸島などを訪れた。
ザビエルは行く先々で死者をよみがえらせたり瀕死の病人を救ったりと奇跡を起こし、原住民を改宗させていった。
ザビエルの評判を聞いた薩摩藩のアンジロウはマラッカまで出向き、ザビエルに面会した。
その案内で一行は、1549年5月マラッカを出航し、8月に薩摩半島の坊津に到着した。
ザビエルは、以後鹿児島、肥前平戸、周防山口、堺と経由して京都に入った。
インドの総督とゴアの司教の親書を後奈良天皇と足利義輝将軍に手交しようとしたが果たせなかった。
その後、周防山口で大内義隆、次いで豊後府内で大友宗麟の許可を得て布教した。
2年4カ月間の活動の後、ザビエルは、4人の日本人を伴って1552年にゴアに戻った。
ザビエルは中国での布教を目指し、洗礼を受けた中国人アントニオの案内で広東に近い上川島に到着した。
しかし、そこでザビエルは熱病におかされ、テ・デウムを唱えながら、1552年12月3日崩御した。
享年46歳であった。
遺体は上川島で埋葬されたが、その後、腐敗防止処置が施されてゴアに出発した。
マラッカで検視したポルトガル人たちは、遺体が新鮮でソフトであることに驚いた。
遺体は1553年5月ゴアに到着。政府高官や検視官たちは、内臓が乾燥していたもののそのままの位置にあることを発見した。
左胸の傷から手を入れたところ血が付着した。
皮膚もあり、手足はそのままであった。
腐臭は全くなかった。
上川島では皮膚と筋肉の一部が船の船長によって持ちさられた。
ゴアに到着後、ポルトガルの貴族夫人イザベル・カロンが右足小指と人差し指を聖遺物として取っていった。
彼女の死後、指は教会に返されたが、1本は生まれ故郷のザビエル城に移された。
下って1614年、イエズス会総長の命により右腕全体が外され、肘から下と指は法王庁に、肘から上は日本に送られ、肩甲骨などは三つに分けてコーチン、マラッカ、マカオに分配された。
1620年には内臓も摘出された。
こうして、聖遺物は全世界に散らばった。
遺体本体は、イエズス会によりボン・ジーザス教会に保存されることとなった。
フランシスコ・ザビエルは、ローマ法王パウロ5世により1619年10月に列福され、次いで1622年に列聖されて聖フランシスコ・ザビエルとなった。
イグナチオ・デ・ロヨラも、同日に列聖された。
普段は、世界遺産になっているボン・ジーザス教会の祭壇前右奥、荘厳・華麗な霊廟に安置されているミイラは、隣の白亜の教会の祭壇前のガラス・ケースに移されていた。
早起きして朝6時に到着したが、すでに長蛇の列だった。
ガラス・ケースの中の聖人の顔は明るい茶色で眼鼻立ちもはっきりしていた。
遺体は肩から足首まで聖なる衣服で覆われていたが、黒色に変色した両足はむき出しであった。
右足の小指は、案の定欠けていた。
ザビエルの聖遺物は各地に散ったが、これはブッダを思い起こさせる。
ブッダは北インドのクシナガルで涅槃に入るが、遺体は荼毘に付され、8つの仏舎利に分けて有力な王や寺院に配られた。
その後、紀元前3世紀にアショカ大王によって発掘され、更に8万程度に分骨され、南アジアに広く行きわたった。
わが国の有力寺院にも仏舎利と称する聖遺物が安置されている。
筆者がかつて北インドの仏跡ヴァイシャリを訪れた際、発掘されたストゥーパから本物のブッダの遺物と見られる骨の一部が発見され、それを拝見した。
キリスト教でも仏教でも、聖人の聖遺物は信仰の対象として崇められるのである。
聖フランシスコ・ザビエルの遺体は、1782年に最初に公開された。
人々が、イエズス会が遺体を持ち去ったと疑ったので、そうではないことを示すためであった。
1859-60年以降は10年ごとに公開されて今日に至っている。
インドには十二使徒のひとり聖トマスも布教に訪れ、チェンナイ(旧マドラス)で殉教したとされている。
今回、殉教の地に建てられたサントメ教会を訪れ、地下にある聖人の墓に参拝した。
人口12億5千万人のインドで、キリスト教人口は約2.5%前後と推定されている。
今回の訪印は、モディ新政権の閣僚や各省次官やタミル・ナド州の政府要人に会うことが主目的であったが、図らずもキリスト教の二人の聖人にお参りする旅になった。
ヒンズー教、イスラム教、仏教、シーク教、ジャイナ教、ソロアスター教など多くの宗教が共存する政教分離国家インドの一端が、よりよく理解できた旅でもあった。
12月に民間外交推進協会(FEC)の訪印団としインドの西海岸の都市ゴアを訪問したが、偶々聖人のミイラが10年ぶりに公開されていた。
聖フランシスコ・ザビエルは、1506年4月7日に、スペインの貴族の家で生を受けた。
母はカスティリア王国のイザベル女王の女官であった。
1525年19歳になったザビエルはパリのソルボンヌ大学に入学し、人文科学、ラテン語、神学や哲学を学んだ。
そこで15歳年上のイグナチオ・デ・ロヨラおよび同年齢のピエール・ファーヴルと部屋をともにした。
イグナチオの影響により、フランシスコは俗世間の夢を捨て信仰に生をささげる決意をした。
イグナチオは、1491年にバスク地方の貴族の家に生まれ、騎士になるつもりであった。
しかし、キリストや聖人の伝記などを読み、特にアッシジの聖フランシスコが福音書の教えそのままの生活と布教に従事したことに感激し、その後を追う決意をした。
法王アドリアヌス6世の許可を得て聖地エルサレムも訪れた。
1528年にパリのソルボンヌ大学に入ったイグナチオは、上記の二人のほか4人の学生をリクルートした。
彼らは1534年にはモンマルトルの丘の上のサン・ドニ聖堂で、生涯を信仰にささげ、純潔と清貧を重んじ貧者や病者に尽くす決意をした。
イエズス会(ジェズイット会、耶蘇会)誕生宣言であった。
紆余曲折を経て1540年、彼らの信仰心と使命感にいたく感心した法王パウルス3世は、新たな男子修道会を樹立することを許可した。
イグナチオが初代の総長(修道士会長)、フランシスコが秘書長に就任した。
1498年5月、ポルトガル王国の貴族ヴァスコ・ダ・ガマは南西インドのカリカットに到着し、インド航路が開かれた。
1510年、貿易の中心地となったゴアは、同地を支配していたサルタンからポルトガルの支配下にはいった。
ポルトガル王ジョアン3世は、香料貿易のほか布教にも熱心であった。
既に同地では、アッシジの聖フランシスコ教団が活躍していた。
ジョアン3世の特別の要請を受けたイグナチオは、インドにザビエルと同僚たちを送ることにした。
一行は、アフリカを経由して1542年5月、ゴアに到着した。
ザビエルは、インド東海岸からマレー半島のマラッカ、更に東のモルッカ諸島などを訪れた。
ザビエルは行く先々で死者をよみがえらせたり瀕死の病人を救ったりと奇跡を起こし、原住民を改宗させていった。
ザビエルの評判を聞いた薩摩藩のアンジロウはマラッカまで出向き、ザビエルに面会した。
その案内で一行は、1549年5月マラッカを出航し、8月に薩摩半島の坊津に到着した。
ザビエルは、以後鹿児島、肥前平戸、周防山口、堺と経由して京都に入った。
インドの総督とゴアの司教の親書を後奈良天皇と足利義輝将軍に手交しようとしたが果たせなかった。
その後、周防山口で大内義隆、次いで豊後府内で大友宗麟の許可を得て布教した。
2年4カ月間の活動の後、ザビエルは、4人の日本人を伴って1552年にゴアに戻った。
ザビエルは中国での布教を目指し、洗礼を受けた中国人アントニオの案内で広東に近い上川島に到着した。
しかし、そこでザビエルは熱病におかされ、テ・デウムを唱えながら、1552年12月3日崩御した。
享年46歳であった。
遺体は上川島で埋葬されたが、その後、腐敗防止処置が施されてゴアに出発した。
マラッカで検視したポルトガル人たちは、遺体が新鮮でソフトであることに驚いた。
遺体は1553年5月ゴアに到着。政府高官や検視官たちは、内臓が乾燥していたもののそのままの位置にあることを発見した。
左胸の傷から手を入れたところ血が付着した。
皮膚もあり、手足はそのままであった。
腐臭は全くなかった。
上川島では皮膚と筋肉の一部が船の船長によって持ちさられた。
ゴアに到着後、ポルトガルの貴族夫人イザベル・カロンが右足小指と人差し指を聖遺物として取っていった。
彼女の死後、指は教会に返されたが、1本は生まれ故郷のザビエル城に移された。
下って1614年、イエズス会総長の命により右腕全体が外され、肘から下と指は法王庁に、肘から上は日本に送られ、肩甲骨などは三つに分けてコーチン、マラッカ、マカオに分配された。
1620年には内臓も摘出された。
こうして、聖遺物は全世界に散らばった。
遺体本体は、イエズス会によりボン・ジーザス教会に保存されることとなった。
フランシスコ・ザビエルは、ローマ法王パウロ5世により1619年10月に列福され、次いで1622年に列聖されて聖フランシスコ・ザビエルとなった。
イグナチオ・デ・ロヨラも、同日に列聖された。
普段は、世界遺産になっているボン・ジーザス教会の祭壇前右奥、荘厳・華麗な霊廟に安置されているミイラは、隣の白亜の教会の祭壇前のガラス・ケースに移されていた。
早起きして朝6時に到着したが、すでに長蛇の列だった。
ガラス・ケースの中の聖人の顔は明るい茶色で眼鼻立ちもはっきりしていた。
遺体は肩から足首まで聖なる衣服で覆われていたが、黒色に変色した両足はむき出しであった。
右足の小指は、案の定欠けていた。
ザビエルの聖遺物は各地に散ったが、これはブッダを思い起こさせる。
ブッダは北インドのクシナガルで涅槃に入るが、遺体は荼毘に付され、8つの仏舎利に分けて有力な王や寺院に配られた。
その後、紀元前3世紀にアショカ大王によって発掘され、更に8万程度に分骨され、南アジアに広く行きわたった。
わが国の有力寺院にも仏舎利と称する聖遺物が安置されている。
筆者がかつて北インドの仏跡ヴァイシャリを訪れた際、発掘されたストゥーパから本物のブッダの遺物と見られる骨の一部が発見され、それを拝見した。
キリスト教でも仏教でも、聖人の聖遺物は信仰の対象として崇められるのである。
聖フランシスコ・ザビエルの遺体は、1782年に最初に公開された。
人々が、イエズス会が遺体を持ち去ったと疑ったので、そうではないことを示すためであった。
1859-60年以降は10年ごとに公開されて今日に至っている。
インドには十二使徒のひとり聖トマスも布教に訪れ、チェンナイ(旧マドラス)で殉教したとされている。
今回、殉教の地に建てられたサントメ教会を訪れ、地下にある聖人の墓に参拝した。
人口12億5千万人のインドで、キリスト教人口は約2.5%前後と推定されている。
今回の訪印は、モディ新政権の閣僚や各省次官やタミル・ナド州の政府要人に会うことが主目的であったが、図らずもキリスト教の二人の聖人にお参りする旅になった。
ヒンズー教、イスラム教、仏教、シーク教、ジャイナ教、ソロアスター教など多くの宗教が共存する政教分離国家インドの一端が、よりよく理解できた旅でもあった。